神奈川宿を散策して
パソボラC班だった、Tさんに誘われて、平成30年4月、NPO法人 神奈川東海道ウォークガイドの会主催の藤沢宿から、参加しております。 月に1度の会なので、毎週土曜日テニスを1回減らして、参加しております。
平成31年2月9日、神奈川宿の日は、雪の天気予報でした。寝る前に、少し、迷いましたが、朝決めようと床に就きました。朝起きると、雪は降っておらず、集合場所である京急の生麦駅にむかう車窓から、トタンの屋根に、うっすらと雪が残っているのが目に入り、(瓦屋根には雪が残ってない!)と一人感心しながら生麦駅に到着。改札口でたところでは、ガイドの方が、笑顔で迎えてくださいました。
申し込み89名中、当日29名の参加。
― 浦島伝説から、生麦事件まで、神奈川宿の千年を歩くー
4班目の5人+ガイド2人で、9時にスタートしました。やはり、9時30分から雪がふってきましたが、私達一行は、ガイドさんを先頭に縦1列に並び、傘もささず、帽子とポンチョタイプのカッパを身にまとい、顔に雪がかからぬように、ひたすら下をむいて歩きました。
少し、大袈裟で、真冬の青森とは比べ物になりませんでしたが。
新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とした「八甲田山」の映画を思い出してしまいました。余談は、これくらいにします。
幕末、幕府によって日米修好通商条約が結ばれる中、尊王攘夷の運動が、高まり、国内は、騒然としていました。生麦事件は、文久2年(1862)8月江戸から帰国の途にあった薩摩藩島津久光の行列に、4人のイギリス人の乗った馬が乗り入れてしまいました。これを無礼とした薩摩藩の武士が斬りかかり、そのうちの1人リチャードソンは、殺されてしまいました。また、2人は、傷を負って神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)まで、逃げ込み、ヘボン博士の治療を受けました。残り1人の女性は、居留地まで、のがれました。(ガイド資料)
この治療に当たった方が、ほどがやパソボラの方にはお馴染み、ローマ字ヘボン式のヘボンさんなのです。
ゆかりの成仏寺のことも追記します。
横浜開港後、この寺にアメリカの宣教医ヘボン博士、などが、仮寓していました。ヘボン博士(James Curtis Hepburn、 日本名 平文、1815~1911)は安政6年(1859)に来日、
日本で、最初の和英辞典を編纂、その辞典にローマ字の日本語表記方法を採用したことや青少年子女の教育などにも尽力したことで、知られています。
ヘボンさんの事を伝えたく、つたない文ですが、初投稿させていただきました。
成仏寺には本堂の横に、浪石、浦島太郎の涙石と名付けられた石もあります。
次に回った、慶運寺(うらしま寺)には、浦島父子塔や、太郎が玉手箱と一緒に持ち帰ったという観音菩薩像が、ありました。
神奈川宿街灯には、かわいらしい亀と波のモニュメントがあしらってありました。