旧前田侯爵邸「前田家16代目当主 前田利為(としなり)侯爵邸」

★江戸時代、前田家の屋敷は本郷にあり、明治時代以降も引き続き本郷に居を構えました。屋敷の大部分は明治4年に文部省の用地となり、隣接して建てられた東京帝国大学の敷地拡張のため、本郷の地も駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになり、「東京大学の教養学部」で知られる加賀百万石大名の子孫の屋敷が、目黒駒場の地に出現することとなりました。 

★本郷の跡地は今では東京大学のキャンパスとなり、大学のシンボルである「赤門」は江戸時代の前田家屋敷の表門で知られています。

★駒場に旧前田邸が建てられたのは戦国時代の名将、利家から数えて16代当主、前田利為(としなり)侯爵が昭和4年から5年にかけて駒場の約1万坪の敷地に、地上3階地下1階建ての洋館と、これを渡り廊下で結んだ2階建て純日本風の和館とを相次いで竣工させたと言われています。うっそうと茂る駒場野の林をそのまま生かした奥庭や芝生の広場。使用人も100人以上いたという前田侯爵邸は、当時東洋一の大邸宅と人々の目を見張らせたものだったようです。

★しかし栄華も永くは続かず、昭和16年に第2次世界大戦が勃発すると、翌年にはボルネオ方面軍司令官として従軍中の利為(としなり)侯が、不慮の死を遂げてしまい、悲劇の将軍とも称されました。夫人をはじめ一家は他へ移り戦局がますます厳しくなる中で、昭和19年、邸内の一部を譲り受け中島飛行機の本社が疎開してきました。 

★そして、終戦になり前田邸は昭和209月、連合軍に接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となり、続いて264月からは、極東総司令官リッジウェイの官邸として使用されました。その後、富士産業(旧中島飛行機)の手を経て、昭和31年に和館及び一部の土地が国の所有となり、翌年ようやく接収が解除となりました。

★昭和38年、旧前田邸に公園を建設することが決定し、翌年、洋館を東京都が買収、国有地については東京都に無償貸与され、都はさらに民有地を買い足して、昭和427月、旧前田邸は、「東京都立駒場公園」として生まれ変わりました。その後、昭和50年に公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至っております。

1・ 玄関ポーチ左側の窓は1階がアーチ型、2階の窓とは作りが異なっています。
1・ 玄関ポーチ左側の窓は1階がアーチ型、2階の窓とは作りが異なっています。
2.童話に出てくるお城の様なとんがり屋根です。
2.童話に出てくるお城の様なとんがり屋根です。
3・ 階段ホール。右側に階段有り、階段下に暖炉が置かれています。
3・ 階段ホール。右側に階段有り、階段下に暖炉が置かれています。
4・ 2階は居住スペースになっています。
4・ 2階は居住スペースになっています。
5・ 3連のアーチが目を引く南側テラスです。
5・ 3連のアーチが目を引く南側テラスです。
6・木々が生い茂る南側テラスの全景を撮ってみました。 
6・木々が生い茂る南側テラスの全景を撮ってみました。