思い出のアルバム・(宮城県・船岡城址公園)    田邊 慶子

★次回の投稿で「伊達騒動」について準備していたところ偶然3月21日(月)BS6チャンネルでpm10:00~11:00の「歴史鑑定」番組で(伊達騒動・寛文事件)を取り上げていたので興味深く見ました。

 

★私が船岡城址公園を訪れたときは桜の花が満開でしたが生憎の天候で写真はイマイチでした。広さは東京ドーム3.2倍で135mの低山に下から「三の丸跡・二の丸跡・本丸跡」に分かれ、眼下には遠く蔵王連峰が望め、白石川堤の手前をJR東北本線(在来線)が走っています。

 

寛文事件(伊達騒動)事件の発端は今から約340年前(万治3年)仙台藩62万石3代目藩主、伊達綱宗が不行跡(酒乱が発覚)を理由に幕府から隠居を命じられ、3歳の亀千代が家督を相続したことに端を発しました。

 

後見人として藩主、亀千代の叔父にあたる伊達政宗の十男・伊達兵部宗勝が選ばれ、(一関藩の藩主でもありました。)伊達騒動の主要人物、原田宗輔(はらだ むねすけ)通称名「原田甲斐」は宗勝の側近でした。宗勝は実権を握り、やりたい放題で、これに反発する人々を弾圧したため、こうした専横を伊達家一門の当主「伊達安芸宗重」が幕府に訴え出た事で江戸幕府「大老・酒井忠清」邸にて老中審議の最中に原田甲斐が宗重に斬りかかり殺してしまいました。また原田甲斐も宗重の側近に斬られ絶命し、原田甲斐は藩の存亡を救うため逆臣の汚名を着たまま死んで行ったとされています。

原田甲斐は原田宗資の長男で、父の死去によりわずか5歳で家督を継ぎ、原田家の第19代当主となります。しかし、寛文11年(1671)寛文事件(伊達騒動)後、原田氏は改易(領地の没収)となり、原田家は責任を取る形で一家断絶となり一族の男は切腹、女はお預け、多くの家臣は帰農となり、悲哀の運命を辿ったとされています。

 

「寛文事件」後に幕府の指示で原田家の建造物は全て壊され、建跡の土も1mも掘削されて捨てられたと伝わります。

 

随分昔、伊達家のお家騒動「寛文事件」、藩を守るために尽力した船岡城城主・通称名   原田甲斐(はらだ かい)の人生をテーマにした山本周五郎作の昭和45年NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」で一躍全国的に有名になった1本の樅の木が今もなお船岡城址公園内に高く聳え立っています。時代の生き証人として、その樅の木に秘められた古い歴史を紐とくとき、寛文事件が、たどった悲哀の運命が、まざまざと蘇ってきます。

 

「藩主、亀千代の後見人」だった伊達兵部宗勝は事件後、伊達騒動の責任を取らされ一関藩は改易(没収)され宗勝は土佐へ配流されたとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1・「樅ノ木」は桜の名所として知られる白石川の堤が見下ろせる公園内に時代の生き証人として、聳え立っています。

                         2船岡城址公園案内図

 

                      3船岡城址公園内の枝垂桜が満開でした。

 

                         4城下を流れる白石川堤の「一目千本桜」の並木です。

                    (中央奥に見えるのは蔵王連峰)

 

                          5桜並木の手前下はJR東北本線の線路(在来線)です。

                    (右上に少し見えているのが樅ノ木の一部)

                                      2022.3.31掲載