寺山修司の資料               内山 啓次郎

 2000年12月に保土ヶ谷区に居を移した。翌2001年7月に、65歳になり、会社勤務の生活が終わった。
体重を下げる様に医者から言われたので、水泳をはじめ、保土ケ谷スポーツ・センターで「卓球クラブ」を立ち上げ、ウオーキングで保土ケ谷公園を歩き回り、体重を9Kg減らした。

その後、設立間もない自治会の会長を引き受け、すぐに「老人クラブ」を立ち上げた。また、最初の「夏祭り」をスタートさせた。夏祭りは、今でも続いている。

私的には、地域活動の「ほどがやパソボラ」に参加した。数年後、「パソコンよこはま宿」の活動に参加させて貰い、老後の生活を楽しんでいる。 

 

そんな中、2010年に青森の中学時代の同級生から「同期の寺山修司に関する資料を持っていないか?」とのメールがあった。手許にあった中学校の文芸部の部誌「白鳥」に、寺山修司君の詩や短歌をスキャナーで撮り、メール添付で送った。それを見た「寺山修司の研究者」という方が、我が家に来られ、「貴重な資料」なので、「寄贈して欲しい。」というので、寺山の故郷の「青森県近代文学館」に寄贈した。

現在は、「青森県近代文学館」で常設展示や、特別展示に利用されている。⇒「修司と修治(寺山修司と太宰治) | 青森県立図書館 (aomori.lg.jp)

先ごろ東京で開催された「寺山修司展」では「目玉展示品」になっていた。

 

中学時代の寺山は目立たない、おとなしい方だった記憶がある。文芸部を指導していた先生が、私のクラスの担任だった為、文芸部の作品が、先生の席の横や後の壁面に飾られていたので、当時の彼の作品は目にしている筈だが、記憶はない。

 

現在、彼の作品で好きなのは「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」と言う短歌である。彼の父が戦病死した為、貧しい、苦しい時を過ごした経験が反映されていると感ずる。

 

私の父は、無事帰国したが、マラリアという熱帯の病気を持ち帰り、発作に苦しみ、5年後に亡くなった。私が高校の1年生の時だったので、大学進学は無理か?という事態になった記憶がある。

 

中学時代の寺山は知っているが、同級になった事はなく、話した経験もない。彼は青森高校から早稲田大学に進み、文学者としてデビューした。デビュー後の、活動は華やかだったが、青森の仲間から借金し、踏み倒しているので評判が悪い。

「俺の名刺が将来は高い値がつく」と言っていたという。思い上がりも甚だしく、好感が持てない。